金床石
テーマ:歴史
2008年11月15日 15時08分
何かの書物で小口に金床石(かなどこいし)があると掲載されていたのを思い出した。
金床石とは鉄を打つための道具で、遺跡調査などで「ふいご」や「砥石」などと共によく見つかることがあるようだ。
そんな遺跡が小口周辺にもあると言う、一体どこににあるのか?
地域の人に聞いてみるも中々分からない。
最後の手段とばかりに熊野川町史で調べてみると、「あった~!」
赤木と長井の間にあり、岩の上には、「此所船難通仍之船路口 施主長井村治兵衛 天明八申年泉州谷川石大工源右衛門 弥吉」と記されているという。
周辺の地理に精通しているN氏に道案内を乞い、それらしき場所に行ってみるも、同じような岩がいくつもあり、石の特定が難しい!
胴長を履いて川に入り、目星をつけた石に近づけば、何と何と上に上がるのも一苦労するような大きな「岩」、先にN氏に登ってもらい小生は下で待機。

「どう、字が書いたある!」
「いや無いわ~ この石と違うんやで~」
「そうか~残念やの~!」
「イヤイヤ チョットまって、薄いけどこれ字みたいやで~」
「ほんと?」
N氏に引き上げてもらい岩の上に上がってみると、素人には判読できないが、確かに岩の中央部に字が彫られている。

でも、なぜ川の真ん中に?
鉄を作る砂鉄は、川の近くで取れるというが・・・・・・。
自然の家に戻り、更に「熊野川町史」を読んでみると・・・・。
昔は熊野川から赤木川までは、船によって物資が運ばれてきていたが、赤木から更に上流には、川瀬が悪く荷を積んで溯上するのは難しかったようである。
水かさがある時には鎌塚や畝畑の最下流までは行くことが出来たらしいが、おそらく、船などがスムーズに通れるように、流れをさえぎる大石などを割って航路などを確保した場所なのでしょう。
昔の村々(道が無い村)では唯一の物資輸送手段は船、いかに川が重要なものであったかという一つの証なのかも知れない。
金床石とは鉄を打つための道具で、遺跡調査などで「ふいご」や「砥石」などと共によく見つかることがあるようだ。
そんな遺跡が小口周辺にもあると言う、一体どこににあるのか?
地域の人に聞いてみるも中々分からない。
最後の手段とばかりに熊野川町史で調べてみると、「あった~!」
赤木と長井の間にあり、岩の上には、「此所船難通仍之船路口 施主長井村治兵衛 天明八申年泉州谷川石大工源右衛門 弥吉」と記されているという。
周辺の地理に精通しているN氏に道案内を乞い、それらしき場所に行ってみるも、同じような岩がいくつもあり、石の特定が難しい!
胴長を履いて川に入り、目星をつけた石に近づけば、何と何と上に上がるのも一苦労するような大きな「岩」、先にN氏に登ってもらい小生は下で待機。

「どう、字が書いたある!」
「いや無いわ~ この石と違うんやで~」
「そうか~残念やの~!」
「イヤイヤ チョットまって、薄いけどこれ字みたいやで~」
「ほんと?」
N氏に引き上げてもらい岩の上に上がってみると、素人には判読できないが、確かに岩の中央部に字が彫られている。

でも、なぜ川の真ん中に?
鉄を作る砂鉄は、川の近くで取れるというが・・・・・・。
自然の家に戻り、更に「熊野川町史」を読んでみると・・・・。
昔は熊野川から赤木川までは、船によって物資が運ばれてきていたが、赤木から更に上流には、川瀬が悪く荷を積んで溯上するのは難しかったようである。
水かさがある時には鎌塚や畝畑の最下流までは行くことが出来たらしいが、おそらく、船などがスムーズに通れるように、流れをさえぎる大石などを割って航路などを確保した場所なのでしょう。
昔の村々(道が無い村)では唯一の物資輸送手段は船、いかに川が重要なものであったかという一つの証なのかも知れない。
鉱山跡
テーマ:歴史
2008年11月13日 05時57分
小口の上長井地区、熊野古道(小雲取越え)の入口である小和瀬向かいに、何やらセメントでふたをした様な洞穴らしき跡が・・・・・・・。
何の跡なのか?
近所の人に聞いてみると、なんと鉱山の跡という。
「わしら小さいときは、あの穴に入ってよう遊んだわ~!」
「鉱道は気持ち悪りさか、そんなに中までは入っていかなんだけどの・・・・。」
何を採掘していた鉱山なのでしょうか?
金鉱、それとも銀、銅?

調べてみると、この一角は「ゆば」と呼ばれており、これは「汰場」(ゆりば)という選鉱場からきた通称名で焼釜の跡まであったようです。
この場で、掘り出した石を高熱で溶かして銅を採取する。
昭和12年頃には、国による資源開発の奨励から、熊野川流域でも盛んに試掘願いが出されたらしく、鉱山ブームが到来し「金鉱景気」を招いたという。
ただ残念なことに、時には大雨により貯毒池が氾濫し、鉱毒による熊野川の鮎被害など地域にとって大きな問題もあったとか?
何の跡なのか?
近所の人に聞いてみると、なんと鉱山の跡という。
「わしら小さいときは、あの穴に入ってよう遊んだわ~!」
「鉱道は気持ち悪りさか、そんなに中までは入っていかなんだけどの・・・・。」
何を採掘していた鉱山なのでしょうか?
金鉱、それとも銀、銅?

調べてみると、この一角は「ゆば」と呼ばれており、これは「汰場」(ゆりば)という選鉱場からきた通称名で焼釜の跡まであったようです。
この場で、掘り出した石を高熱で溶かして銅を採取する。
昭和12年頃には、国による資源開発の奨励から、熊野川流域でも盛んに試掘願いが出されたらしく、鉱山ブームが到来し「金鉱景気」を招いたという。
ただ残念なことに、時には大雨により貯毒池が氾濫し、鉱毒による熊野川の鮎被害など地域にとって大きな問題もあったとか?
隠れ家
テーマ:歴史
2008年08月29日 13時24分
滝本地区の本谷に「宝龍の滝」があり、その上流には滝と壷の調和がすばらしい「コッペ滝」がある。

その「コッペ滝」から取水堰堤を過ぎると「藤綱の要害跡」というのがありますが、ここは、源平合戦に敗れた平維盛(たいらのこれもり)が隠れ住んだ所と言われています。
この隠れ家は、奥深く絶壁に囲まれた中にあり熊野の大秘境の中の隠れ家、更に対岸まで伸びる藤の蔓も・・・・・・・・もしも蔦を伝って敵が迫れば、この蔓を切って侵入を防ぐと言われる。
維盛は平安末期の武将、平清盛の孫で平重盛の長男にあたる。
大変美貌の武将であったというが、武運には恵まれず富士川の戦いでは、鳥の羽音を敵の奇襲と誤って敗走し、源義仲との倶利伽羅峠の戦いでも敗戦。
そして、屋島では戦いから離脱し腹心を連れて都落ち、紀三井寺から高野山、龍神、十津川を経て本宮に逃げのび、本宮での参拝後、小雲取越え大雲取越えを経て那智大社に参拝、浜の宮から舟で補陀洛浄土へと旅立(入水自殺)ったと言われている。
しかし、これには色んな説があるようで、頼朝の残党狩りから逃れる為に入水に見せかけ、実は各地を転々としたとか、再び都に上って法皇に助命を懇願したとか?
今回の「藤綱要害跡」の説では、最終的に那智勝浦町の色川にたどり着き、色川の人たちが人里離れたこの地で要害を築き、ひそかに維盛をかくまい源氏の探索の手も薄くなった3年後には色川に落ち着き2人の男子をもうけたとも言われています。

一時は権勢をほしいままにしていた平氏、もしもこの説どうりであったのなら、武将の維盛はどんな想いでこの場所で時を過ごしたのでしょうか?
それにしても熊野には平家の落人伝説が多い、な~~ぜ ??

その「コッペ滝」から取水堰堤を過ぎると「藤綱の要害跡」というのがありますが、ここは、源平合戦に敗れた平維盛(たいらのこれもり)が隠れ住んだ所と言われています。
この隠れ家は、奥深く絶壁に囲まれた中にあり熊野の大秘境の中の隠れ家、更に対岸まで伸びる藤の蔓も・・・・・・・・もしも蔦を伝って敵が迫れば、この蔓を切って侵入を防ぐと言われる。
維盛は平安末期の武将、平清盛の孫で平重盛の長男にあたる。
大変美貌の武将であったというが、武運には恵まれず富士川の戦いでは、鳥の羽音を敵の奇襲と誤って敗走し、源義仲との倶利伽羅峠の戦いでも敗戦。
そして、屋島では戦いから離脱し腹心を連れて都落ち、紀三井寺から高野山、龍神、十津川を経て本宮に逃げのび、本宮での参拝後、小雲取越え大雲取越えを経て那智大社に参拝、浜の宮から舟で補陀洛浄土へと旅立(入水自殺)ったと言われている。
しかし、これには色んな説があるようで、頼朝の残党狩りから逃れる為に入水に見せかけ、実は各地を転々としたとか、再び都に上って法皇に助命を懇願したとか?
今回の「藤綱要害跡」の説では、最終的に那智勝浦町の色川にたどり着き、色川の人たちが人里離れたこの地で要害を築き、ひそかに維盛をかくまい源氏の探索の手も薄くなった3年後には色川に落ち着き2人の男子をもうけたとも言われています。

一時は権勢をほしいままにしていた平氏、もしもこの説どうりであったのなら、武将の維盛はどんな想いでこの場所で時を過ごしたのでしょうか?
それにしても熊野には平家の落人伝説が多い、な~~ぜ ??
受け継がれる技術!
テーマ:歴史
2008年08月07日 06時59分
花から~花へと~♪ 飛んで飛んで♪
熊野の大自然の恵みが・・・・小生の口に!
中々手に入らない在来種日本ミツバチの蜜、ついに手に入れました。
それも和田川産の極もの!!
さすが、あの険しい山中を飛び回り、数ある木々の花から集めた蜜、濃い色をしたそれは実にきめの細かな味がします。
あまりの美味しさに顎が外れそう!!

「今年は60箱ぐらいしか、よう切らなんだわ~!」と語る熊野川町椋の井のMさん。
和田川を中心に、広範囲に「ごうば」(蜂が蜜を集める箱)を置いているらしいが、今年の蜜の採取は先日の瀞奥にある立会川のものを最後に終了したという。
「切る」というのは「ごうば」から蜜を取り出す行為のことのようだが、60箱も設置しているのはすごい!
「いや、若いころは180箱ほど置いた~たんやで~!」と言う。
秋がくれば中を綺麗に掃除して、冬には洋蜜や「きざら」を買って餌として与える。

時には天敵の熊に襲われたりするという。
採取は、山から背負子で下ろす。
背中には蜜がいっぱい付いて、ベトベト!
当然それにアリがつく。
ろ過は部屋の中、蜂もついてくるので部屋中に蜂が飛び交う。
そうして、ろ過した蜜を1年間寝かしてやっと完成だという。
なんとも苦労の多い養蜂です。
それでも、遠く北海道からの注文や心臓病の為にと毎年購入してくれる人も沢山いるのでやめられないと言う。
世界最古の甘味料ともいわれ、栄養価が高い日本ミツバチの蜜、江戸時代からはじまった歴史ある養蜂、熊野の山間部では今もその技術が脈々と受け継がれています。
熊野の大自然の恵みが・・・・小生の口に!
中々手に入らない在来種日本ミツバチの蜜、ついに手に入れました。
それも和田川産の極もの!!
さすが、あの険しい山中を飛び回り、数ある木々の花から集めた蜜、濃い色をしたそれは実にきめの細かな味がします。
あまりの美味しさに顎が外れそう!!

「今年は60箱ぐらいしか、よう切らなんだわ~!」と語る熊野川町椋の井のMさん。
和田川を中心に、広範囲に「ごうば」(蜂が蜜を集める箱)を置いているらしいが、今年の蜜の採取は先日の瀞奥にある立会川のものを最後に終了したという。
「切る」というのは「ごうば」から蜜を取り出す行為のことのようだが、60箱も設置しているのはすごい!
「いや、若いころは180箱ほど置いた~たんやで~!」と言う。
秋がくれば中を綺麗に掃除して、冬には洋蜜や「きざら」を買って餌として与える。

時には天敵の熊に襲われたりするという。
採取は、山から背負子で下ろす。
背中には蜜がいっぱい付いて、ベトベト!
当然それにアリがつく。
ろ過は部屋の中、蜂もついてくるので部屋中に蜂が飛び交う。
そうして、ろ過した蜜を1年間寝かしてやっと完成だという。
なんとも苦労の多い養蜂です。
それでも、遠く北海道からの注文や心臓病の為にと毎年購入してくれる人も沢山いるのでやめられないと言う。
世界最古の甘味料ともいわれ、栄養価が高い日本ミツバチの蜜、江戸時代からはじまった歴史ある養蜂、熊野の山間部では今もその技術が脈々と受け継がれています。
ジマツリ
テーマ:歴史
2008年07月16日 10時59分
「ジマツリ」・・・・・一般的には建築工事等の着手の際に、大地主神に工事の安全や住人の繁栄がえられるよう祈願する建築儀礼の一種「地鎮祭」ですが、熊野川町では「田畑の祭」で稲の成長を祈る儀式、「ジマツリ」と呼ばれるものが存在し、地域の行事として広く行われていたといいます。
小口地域(上長井・西・東・大山・鎌塚・滝本・畝畑)でも、上長井のように旧暦の6月丑の日に行うところや鎌塚のように稲が大きくなった6月最初の丑の日に行なう所など色々、中には畝畑などのように正月の行事として行なっていた地域もあったようです。
祭りは田や畑に栗の枝を立て、その葉で供え物を包んで木につける。
地域によっては、団子(滝本)やアズキご飯(鎌塚)、西、東、大山地区などは木の下へ米を供え、上長井地区では小豆とご飯とわらびの干したものを炊いて栗の葉に包んで供え、「良い米を作らせてください」と祈ったといいます。
中には餅などを供える所もあり、これを食べると「夏負しない。」と言われたらしいく、子供たちがこれを「たばって」周ったとか。
【 稲の穂がしっかりしだした昨日の写真ですが、この頃に稲の成長を願ったのだろうか? 】


この「ジマツリ」、小口のお隣 赤木地区では昭和20年ぐらいまで行なっていたようですが・・・・・・・・田舎にある色んな祭りも、次代に引き継いでいくのも中々難しいものなのか?
小口地域(上長井・西・東・大山・鎌塚・滝本・畝畑)でも、上長井のように旧暦の6月丑の日に行うところや鎌塚のように稲が大きくなった6月最初の丑の日に行なう所など色々、中には畝畑などのように正月の行事として行なっていた地域もあったようです。
祭りは田や畑に栗の枝を立て、その葉で供え物を包んで木につける。
地域によっては、団子(滝本)やアズキご飯(鎌塚)、西、東、大山地区などは木の下へ米を供え、上長井地区では小豆とご飯とわらびの干したものを炊いて栗の葉に包んで供え、「良い米を作らせてください」と祈ったといいます。
中には餅などを供える所もあり、これを食べると「夏負しない。」と言われたらしいく、子供たちがこれを「たばって」周ったとか。
【 稲の穂がしっかりしだした昨日の写真ですが、この頃に稲の成長を願ったのだろうか? 】


この「ジマツリ」、小口のお隣 赤木地区では昭和20年ぐらいまで行なっていたようですが・・・・・・・・田舎にある色んな祭りも、次代に引き継いでいくのも中々難しいものなのか?
熊野川町にも飛び地!
テーマ:歴史
2008年06月07日 10時15分
県や市町村の町が他の行政区域内に飛んで存在する「飛地」。
「村ブロの聖地」北山村も和歌山県の飛地なら、熊野川町(新宮市)にも飛び地があります。
地図で見ると、新宮市から少し離れた三重県と奈良県の間に「新宮市飛地」とある。
ここは、熊野川町の玉置口、嶋津地区などです。
なぜ飛び地ができるのか?
武士の時代は藩主の領地が分散していることはよくありますが、その国が作り変えられる際に飛び地ができたという。
熊野川町の場合、紀州藩から明治2年には和歌山藩、田辺藩、新宮藩に分かれます。
熊野川町は当然新宮藩に属しますが、明治4年の7月には廃藩置県で新宮藩は新宮県に名称が改められ、更に、4ヵ月後には3つの県が統合されて和歌山県に合併されます。
その際に三重県(当時は度会県)との境界は北山川、熊野川を中心として右岸は和歌山県とし左岸は度会県(わたらい)とすることになりました。
このように川を中心に県境を定めたために、左岸の玉置口村の大向い、嶋津村の小川口、九重村の百夜月、四滝村の和地谷、田長村の野地は三重県に、「北山村」や「湯の口村の河根」、「花井村の西花井」など玉置口、嶋津地区は和歌山県の飛地となり、村が二分されてしまいました。
でも、県境が川の流れによって決まるのは極めて珍しい事らしいですよ~!
通常は、「藩境」やそうでない場合は「峠」で県境を決めていたのが・・・・・・これこそなぜなの?・・・・です。
当時の川といえば、今の国道のようなもので物流の輸送には欠かせないもの!
同じ生活圏の中で、しかも重要な場所で町を二分してしまうのは、シンジラレマセ~ン?
第二次長州征伐で新宮藩が広島大野村で敵を3度も敗走させたということから、明治に入った桂内閣が長州出身であり、新宮藩を二分するためにあえて川を県境にしたというような、まことしやかな話も聞かれるが、本当はどうなのでしょう?
「村ブロの聖地」北山村も和歌山県の飛地なら、熊野川町(新宮市)にも飛び地があります。
地図で見ると、新宮市から少し離れた三重県と奈良県の間に「新宮市飛地」とある。
ここは、熊野川町の玉置口、嶋津地区などです。
なぜ飛び地ができるのか?
武士の時代は藩主の領地が分散していることはよくありますが、その国が作り変えられる際に飛び地ができたという。
熊野川町の場合、紀州藩から明治2年には和歌山藩、田辺藩、新宮藩に分かれます。
熊野川町は当然新宮藩に属しますが、明治4年の7月には廃藩置県で新宮藩は新宮県に名称が改められ、更に、4ヵ月後には3つの県が統合されて和歌山県に合併されます。
その際に三重県(当時は度会県)との境界は北山川、熊野川を中心として右岸は和歌山県とし左岸は度会県(わたらい)とすることになりました。
このように川を中心に県境を定めたために、左岸の玉置口村の大向い、嶋津村の小川口、九重村の百夜月、四滝村の和地谷、田長村の野地は三重県に、「北山村」や「湯の口村の河根」、「花井村の西花井」など玉置口、嶋津地区は和歌山県の飛地となり、村が二分されてしまいました。
でも、県境が川の流れによって決まるのは極めて珍しい事らしいですよ~!
通常は、「藩境」やそうでない場合は「峠」で県境を決めていたのが・・・・・・これこそなぜなの?・・・・です。
当時の川といえば、今の国道のようなもので物流の輸送には欠かせないもの!
同じ生活圏の中で、しかも重要な場所で町を二分してしまうのは、シンジラレマセ~ン?
第二次長州征伐で新宮藩が広島大野村で敵を3度も敗走させたということから、明治に入った桂内閣が長州出身であり、新宮藩を二分するためにあえて川を県境にしたというような、まことしやかな話も聞かれるが、本当はどうなのでしょう?
中村や~!!
テーマ:歴史
2008年05月27日 18時25分
江戸時代、村役人で村の代表でもあった「庄屋さん」、藩からの年貢米の決まりを村人に伝えたり、土地の管理などの仕事をする、今の役場のような存在。
更に、数か村のエリアを管轄する「大庄屋」という役職もあった。
この庄屋、世襲制であったり、一年ごとの交代制であったり、中には選挙をして選ぶところもあったとか?
でも、明治時代に入ってからは、新宮領が新宮藩になったり、廃藩置県で新宮県から和歌山県になったりで目まぐるしい動きの中で、明治2年には奉行所を廃止し役所が設けられました。

そんな関係から職名も徐々に変化し翌3年には大庄屋が郷長に、明治5年には郷長や庄屋が廃止され市長と戸長(郷長)、副戸長(庄屋)になっていったようです。
なんともややこしい変わりようです。
役職名が変われば、仕事がはかどったのでしょうか?(笑い)
小口では中村文左衛門という方が庄屋として取り仕切り、多岐に渡る庄屋の業務をこなす為に、計算能力に優れた南方安衛門(初代)という人を和歌山から招き入れてまで力を注いだと言います。

この文左衛門さんは、明治6年には大山組を統括する戸長にも任じられましたが、一方で中村屋という旅籠も経営していたようです。
「旅籠 中村屋」は、熊野道(大雲取~小雲取越え)の中継基地として利用され、大正期には斉藤茂吉や土屋文明が宿泊、文明に至っては昭和36年にも二度目の宿泊をするなど文人たちによく利用されたといいます。
やっぱり大地主はやることが違う、違うわ~!同じ敷地内に庄屋と旅籠ですよ。
今で言えば、役所の隣でホテル経営!といったところでしょうか?
こんなことを考えると、ちょっとした悔しさもありますが、そんな土地の名士であった中村家の ゛たたずまい゛はいまも立派に残っています。
大きな敷地には、強固な石積みに支えられた正門や母屋、蔵、どう見ても当時の他の民家とはずいぶん違うような構造、そして、本瓦葺の屋根の両端には、魔よけと装飾のために「鬼瓦」が取り付けられています。
大きな口をあけ、牙を出した形相と口は閉じてはいるが輝く大きな目で睨みを利かす鬼の顔は、威風堂々の庄屋の格式を守っている。

保存状態は決して良好ではありませんが、長年の風雨に耐えてきた歴史の顔です。
更に、数か村のエリアを管轄する「大庄屋」という役職もあった。
この庄屋、世襲制であったり、一年ごとの交代制であったり、中には選挙をして選ぶところもあったとか?
でも、明治時代に入ってからは、新宮領が新宮藩になったり、廃藩置県で新宮県から和歌山県になったりで目まぐるしい動きの中で、明治2年には奉行所を廃止し役所が設けられました。

そんな関係から職名も徐々に変化し翌3年には大庄屋が郷長に、明治5年には郷長や庄屋が廃止され市長と戸長(郷長)、副戸長(庄屋)になっていったようです。
なんともややこしい変わりようです。
役職名が変われば、仕事がはかどったのでしょうか?(笑い)
小口では中村文左衛門という方が庄屋として取り仕切り、多岐に渡る庄屋の業務をこなす為に、計算能力に優れた南方安衛門(初代)という人を和歌山から招き入れてまで力を注いだと言います。

この文左衛門さんは、明治6年には大山組を統括する戸長にも任じられましたが、一方で中村屋という旅籠も経営していたようです。
「旅籠 中村屋」は、熊野道(大雲取~小雲取越え)の中継基地として利用され、大正期には斉藤茂吉や土屋文明が宿泊、文明に至っては昭和36年にも二度目の宿泊をするなど文人たちによく利用されたといいます。
やっぱり大地主はやることが違う、違うわ~!同じ敷地内に庄屋と旅籠ですよ。
今で言えば、役所の隣でホテル経営!といったところでしょうか?
こんなことを考えると、ちょっとした悔しさもありますが、そんな土地の名士であった中村家の ゛たたずまい゛はいまも立派に残っています。
大きな敷地には、強固な石積みに支えられた正門や母屋、蔵、どう見ても当時の他の民家とはずいぶん違うような構造、そして、本瓦葺の屋根の両端には、魔よけと装飾のために「鬼瓦」が取り付けられています。
大きな口をあけ、牙を出した形相と口は閉じてはいるが輝く大きな目で睨みを利かす鬼の顔は、威風堂々の庄屋の格式を守っている。

保存状態は決して良好ではありませんが、長年の風雨に耐えてきた歴史の顔です。
小口中の歴史
テーマ:歴史
2008年02月16日 08時59分
先日、70歳ぐらいの男性がひょっこり姿を現し、「同級会」をしたいのだが・・・・・部屋と宿泊大丈夫?
聞けば「小口自然の家」の前身である、「小口中学校」の卒業生だといいます。
昭和27年卒といいますから、なんと55年前の卒業生!
幹事を務めるその方は、前回の同級会は還暦のとき、もう10年も前のこと、「今回も、どこかの温泉宿で一泊して・・・・と考えていたが、いつまでも同級会が出来るわけでもないし、最後になるかもしれない?」、同級生からは「今回は思いで残る我が学び舎で開催してほしい!」との要望も多く、訪ねてきてくれたようだ。
小口中学校は昭和22年の創設、戦後の大変な時代で寄宿舎の屋根も自分たちで杉皮を葺いたり、特に当時は食料受難の時代、寄宿舎で食べる米もなく滝本や鎌塚などの村から貰ったと言います。

また、中学校への義務化も始まった(昭和24年)ばかりで、その理解不足から親の説得に努めたこともあったようだ。
それだけ、当時の子供たちは農家の戦力になっていたのでしょう!
農繁期には、手伝いのための「農休」まで設けたり、資金的に苦しく校費の一部に当てるために校内で椎茸栽培もしたと言います。
こうして、時代や社会的背景の中で苦労を重ねながら守り育ててきた学校です。
その甲斐あってか?29年にはピアノを購入、32年には学校給食が開始、38年には校歌ができて、学校としての体裁が段々と整っていきました。

生徒たちも自然の中で逞しく育ち、感性豊かな人間として巣立っていったと思います。
今で言う、自然と一体となった本物の教育が実践され、この学校に大きな誇りを持っていました。
しかし、40年代に入ると生徒数の減少などから学校の統廃合が進みS56年、1101名の卒業生を輩出し、地域と共に歩んできた「小口中学校」も、その歴史に幕が下ろされました。
その後、旧校舎を改築し、「自然の家」として生まれ変わり(昭和62年)ましたが、原型を残したその建物には卒業生が学んだ思い出はいつまでも生き続けていると思います。
今年に入り、中学生ぐらいの子供を連れた親子が自然の家の前を通っていた時のこと、「お父さん、これなに?」、答えるお父さん「これはお父さんが卒業するときに作った記念の作品や!」誇らしげに子供に語る父親。
小口中の歴史は「自然の家」がある限り、永遠に心に残っていくと思います。
聞けば「小口自然の家」の前身である、「小口中学校」の卒業生だといいます。
昭和27年卒といいますから、なんと55年前の卒業生!
幹事を務めるその方は、前回の同級会は還暦のとき、もう10年も前のこと、「今回も、どこかの温泉宿で一泊して・・・・と考えていたが、いつまでも同級会が出来るわけでもないし、最後になるかもしれない?」、同級生からは「今回は思いで残る我が学び舎で開催してほしい!」との要望も多く、訪ねてきてくれたようだ。
小口中学校は昭和22年の創設、戦後の大変な時代で寄宿舎の屋根も自分たちで杉皮を葺いたり、特に当時は食料受難の時代、寄宿舎で食べる米もなく滝本や鎌塚などの村から貰ったと言います。

また、中学校への義務化も始まった(昭和24年)ばかりで、その理解不足から親の説得に努めたこともあったようだ。
それだけ、当時の子供たちは農家の戦力になっていたのでしょう!
農繁期には、手伝いのための「農休」まで設けたり、資金的に苦しく校費の一部に当てるために校内で椎茸栽培もしたと言います。
こうして、時代や社会的背景の中で苦労を重ねながら守り育ててきた学校です。
その甲斐あってか?29年にはピアノを購入、32年には学校給食が開始、38年には校歌ができて、学校としての体裁が段々と整っていきました。

生徒たちも自然の中で逞しく育ち、感性豊かな人間として巣立っていったと思います。
今で言う、自然と一体となった本物の教育が実践され、この学校に大きな誇りを持っていました。
しかし、40年代に入ると生徒数の減少などから学校の統廃合が進みS56年、1101名の卒業生を輩出し、地域と共に歩んできた「小口中学校」も、その歴史に幕が下ろされました。
その後、旧校舎を改築し、「自然の家」として生まれ変わり(昭和62年)ましたが、原型を残したその建物には卒業生が学んだ思い出はいつまでも生き続けていると思います。
今年に入り、中学生ぐらいの子供を連れた親子が自然の家の前を通っていた時のこと、「お父さん、これなに?」、答えるお父さん「これはお父さんが卒業するときに作った記念の作品や!」誇らしげに子供に語る父親。
小口中の歴史は「自然の家」がある限り、永遠に心に残っていくと思います。
修験の名残!
テーマ:歴史
2008年02月02日 11時04分
昨日、近所のNさんからお誘いが、「今、大休場(おやすばと言う地名)へ行ってきたんやけど、ええもんあったぜ~」「見に行かへん?」
「行くんやったら案内するよ~」と言われたので、「それ 何処?」「ついそこや!(直ぐ近くや)」「ほな、行くわ~」。
こんな調子で、大休場という初めて聞く場所にも、「ついそこ」に釣られて早速行くことに!
一応、リュックとカメラを片手に歩き出す。途中これも近所のSさんと合流し3人で行くことになった。
どこに行くのかと思っていたら、「小口自然の家」の前方にある山のふもとに、そこから山に入るようだ。
「お~ さすが厳しい上り」
5分ぐらい歩いた、「もうそろそろ?」「いや~これから40分ぐらい登ったとこや~」「エェ~ッ?」、それはそれは絶壁のような急斜面、熊野古道大雲取越えの越前峠よりもはるか厳しい「魔の坂」。
20分ほど急坂を登っただろうか?ここで小休止、息も絶え絶えである。
前方を見渡せば、木立の間から大雲取越えの楠の久保周辺が目の前に!
高さにして400mほど上ったようだ。

この辺にあるのかな?と思ったが「ここはまだ序の口や!」という厳しいお言葉、ついてきたことを深か~く 深か~く反省しながら、更に先に進む。
山道の横に水路もある、はて?こんな高い山の中、どこから水を引くのだろう!水路があるということは、昔は人も住み田もあった?
しばらく歩くと、案の定石積みをした田んぼの跡がいくつも見えてきた。
そして、所要時間約45分、ついに目的地についた。

そこには、縦横3m以上にも及ぶ大きな自然石の碑があった。
中央には卍と大日如来、上には仏様が彫られ、大岡家祖代々、彼岸中日昭和7・3・21大阪福眞行者納めるとある。その横には地元の方であろうか?4軒5名の名前も彫られ、なかなか見ごたえのある碑です。
その前で「あれやこれや」と暫らく談笑したあと帰路に。
碑からしばらくは田圃跡が続き、住まいの跡もいくつか見える。

「こんな所に人が・・・・」と思っていると先頭のNさんがいきなり「近道するよ~」と言うなり、山を垂直に降りはじめた!
やむなくそのあとに続く、さすが生粋の「小口人 Nさん」、道なき道をどんどん進む、障害物を跳び越え倒木をいとも簡単に跳ね除けてくれる、「この人なら山の中で猪に出会っても互角に戦えるのでは」と思いながら、都会育ち?の小生は木にしがみつきながら必死で後に続く。

そうしながらも、滝に出会ったり珍しい植物などを観賞しながら何とか下山。
下山後、そこに住んでいたと言うOさんに話を聞くことができました。
昔、大雲(熊野道)を通って楠の久保から大山地区に降りてきた修験者がいたそうな。
その人は、何回かこの地で修行を重ねていたが、4回目にN氏宅に止めてもらえないかと尋ねてきた。ちょうど居合わせた石屋のKY(今流行のKYじゃあないよ~)さんとその兄弟が「それじゃあ、私所に行こう。」とその修験者を連れて40日も泊めてあげたと言う。
その修験者はことのほか感じ入り、そのお礼として彫ってくれたのが、この碑である。
刻まれた4軒5名の名は、その地域の村人で感謝の意を込めて刻まれていると言います。
そのOさん、「遍路さんが来たのは私が6~7歳ごろ、その人の話がまた面白ろ~てのぅ 私大好きやった。」
「碑を彫る時ものぅ~、石屋のKさん兄弟が手伝いながら彫ったんやよ!」
「私ら小さいころは、その碑の祠のとこ(所)の石を削って水に入れて飲むと不思議に風邪などの病気が治った。そのころは医者に行くにも日足まで行かなあかなんだし(ダメだったし)、風邪引くといっつも母が削りに行ってくれた。」
「昔は、4軒の家があって田圃も1軒あたり6反も作ったあた、今は山の中やけど私は20歳ぐらいまで過ごしたし、昭和40年頃までは人が住んでいた。」
「それからづっとお大師さんとして4月21日にはお祭りさせてもらいやるんやよ~戦時中の食べ物もない時代でも、ご飯を炊き餅をついての~!」
この場所は、今でも修験者が来ると言う。
色んな所に、いろんな歴史あり!
山道もきれいに整備されているので、ちょっとしたハイキングコースにもよいかもしれませんね!
一度チャレンジされてみてはいかが!
「行くんやったら案内するよ~」と言われたので、「それ 何処?」「ついそこや!(直ぐ近くや)」「ほな、行くわ~」。
こんな調子で、大休場という初めて聞く場所にも、「ついそこ」に釣られて早速行くことに!
一応、リュックとカメラを片手に歩き出す。途中これも近所のSさんと合流し3人で行くことになった。
どこに行くのかと思っていたら、「小口自然の家」の前方にある山のふもとに、そこから山に入るようだ。
「お~ さすが厳しい上り」
5分ぐらい歩いた、「もうそろそろ?」「いや~これから40分ぐらい登ったとこや~」「エェ~ッ?」、それはそれは絶壁のような急斜面、熊野古道大雲取越えの越前峠よりもはるか厳しい「魔の坂」。
20分ほど急坂を登っただろうか?ここで小休止、息も絶え絶えである。
前方を見渡せば、木立の間から大雲取越えの楠の久保周辺が目の前に!
高さにして400mほど上ったようだ。

この辺にあるのかな?と思ったが「ここはまだ序の口や!」という厳しいお言葉、ついてきたことを深か~く 深か~く反省しながら、更に先に進む。
山道の横に水路もある、はて?こんな高い山の中、どこから水を引くのだろう!水路があるということは、昔は人も住み田もあった?
しばらく歩くと、案の定石積みをした田んぼの跡がいくつも見えてきた。
そして、所要時間約45分、ついに目的地についた。

そこには、縦横3m以上にも及ぶ大きな自然石の碑があった。
中央には卍と大日如来、上には仏様が彫られ、大岡家祖代々、彼岸中日昭和7・3・21大阪福眞行者納めるとある。その横には地元の方であろうか?4軒5名の名前も彫られ、なかなか見ごたえのある碑です。
その前で「あれやこれや」と暫らく談笑したあと帰路に。
碑からしばらくは田圃跡が続き、住まいの跡もいくつか見える。

「こんな所に人が・・・・」と思っていると先頭のNさんがいきなり「近道するよ~」と言うなり、山を垂直に降りはじめた!
やむなくそのあとに続く、さすが生粋の「小口人 Nさん」、道なき道をどんどん進む、障害物を跳び越え倒木をいとも簡単に跳ね除けてくれる、「この人なら山の中で猪に出会っても互角に戦えるのでは」と思いながら、都会育ち?の小生は木にしがみつきながら必死で後に続く。

そうしながらも、滝に出会ったり珍しい植物などを観賞しながら何とか下山。
下山後、そこに住んでいたと言うOさんに話を聞くことができました。
昔、大雲(熊野道)を通って楠の久保から大山地区に降りてきた修験者がいたそうな。
その人は、何回かこの地で修行を重ねていたが、4回目にN氏宅に止めてもらえないかと尋ねてきた。ちょうど居合わせた石屋のKY(今流行のKYじゃあないよ~)さんとその兄弟が「それじゃあ、私所に行こう。」とその修験者を連れて40日も泊めてあげたと言う。
その修験者はことのほか感じ入り、そのお礼として彫ってくれたのが、この碑である。
刻まれた4軒5名の名は、その地域の村人で感謝の意を込めて刻まれていると言います。
そのOさん、「遍路さんが来たのは私が6~7歳ごろ、その人の話がまた面白ろ~てのぅ 私大好きやった。」
「碑を彫る時ものぅ~、石屋のKさん兄弟が手伝いながら彫ったんやよ!」
「私ら小さいころは、その碑の祠のとこ(所)の石を削って水に入れて飲むと不思議に風邪などの病気が治った。そのころは医者に行くにも日足まで行かなあかなんだし(ダメだったし)、風邪引くといっつも母が削りに行ってくれた。」
「昔は、4軒の家があって田圃も1軒あたり6反も作ったあた、今は山の中やけど私は20歳ぐらいまで過ごしたし、昭和40年頃までは人が住んでいた。」
「それからづっとお大師さんとして4月21日にはお祭りさせてもらいやるんやよ~戦時中の食べ物もない時代でも、ご飯を炊き餅をついての~!」
この場所は、今でも修験者が来ると言う。
色んな所に、いろんな歴史あり!
山道もきれいに整備されているので、ちょっとしたハイキングコースにもよいかもしれませんね!
一度チャレンジされてみてはいかが!
新四郎溝
テーマ:歴史
2008年01月12日 05時59分
熊野川町田長谷の山中に人工的に積み上げられた石垣があった。
シシガキに土砂が堆積?と思ったが、どうも昔の水路のようです。

山を20mほど降りてみると古い看板があり、
杉林の中の古い溝路は、今を去る8百年もの昔、赤木の里に移り住んだ平家の落ち武者の子「田中新四郎」が、赤木地区の人々が毎年水不足で困っている姿を見て一念発起、田長谷から赤木に送水することを決意し私財を投げうち、岩を切り開き石垣を積み700mあまりの溝路を完成させ、待望の水を赤木の里へ導くことが出来た。
水路は数百年の間、毎年春先に里人が改修を重ねて保存していましたが、昭和8年、新しい水路が出来たのを機に、それ以降は使用されなくなりました。
赤木の人は新四郎の行ないに深く感銘し、この古溝を「新四郎溝」と呼ぶようになった。
とありました。
テレビなどではインダス文明の給排水について、よく放映されていますがはるか遠い時代にも、既に都市には給排水の設備があったり、日本でも環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落)に、中国などから稲作技術と共に伝えられたものなのか?農業用水路として使われていたと推定される跡が見つかったり・・・・・。
とにかく水路の歴史ってスゴイですね~。
今も昔も、水は人間の日常生活に絶対必要な事は言うまでもありませんが、経済活動にも不可欠なものだったんですね。
この「新四郎溝」も、時代の流れと流域住民の生活の変遷で役目を終えてしまいましたが、別段の動力を用いることもなく、土地の高低差だけで水を送るのは、起伏に富んだ熊野ならではのものかも?
シシガキに土砂が堆積?と思ったが、どうも昔の水路のようです。

山を20mほど降りてみると古い看板があり、
杉林の中の古い溝路は、今を去る8百年もの昔、赤木の里に移り住んだ平家の落ち武者の子「田中新四郎」が、赤木地区の人々が毎年水不足で困っている姿を見て一念発起、田長谷から赤木に送水することを決意し私財を投げうち、岩を切り開き石垣を積み700mあまりの溝路を完成させ、待望の水を赤木の里へ導くことが出来た。
水路は数百年の間、毎年春先に里人が改修を重ねて保存していましたが、昭和8年、新しい水路が出来たのを機に、それ以降は使用されなくなりました。
赤木の人は新四郎の行ないに深く感銘し、この古溝を「新四郎溝」と呼ぶようになった。
とありました。
テレビなどではインダス文明の給排水について、よく放映されていますがはるか遠い時代にも、既に都市には給排水の設備があったり、日本でも環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落)に、中国などから稲作技術と共に伝えられたものなのか?農業用水路として使われていたと推定される跡が見つかったり・・・・・。
とにかく水路の歴史ってスゴイですね~。
今も昔も、水は人間の日常生活に絶対必要な事は言うまでもありませんが、経済活動にも不可欠なものだったんですね。
この「新四郎溝」も、時代の流れと流域住民の生活の変遷で役目を終えてしまいましたが、別段の動力を用いることもなく、土地の高低差だけで水を送るのは、起伏に富んだ熊野ならではのものかも?



