チョットだけ改善!
でも、これが何と紙切れ!

前々から、チョット失礼では?
と思いつつもなかなか改善するまでには至らなかった。
と言うか、何度かホームセンターや文具店に足は運んだけれど、名札って結構高いものですね!
「ようけ(沢山)買うけど、ディスカウント OK?」
「NO~!」
そんな、店とのやり取りもあり・・・・・・・延び延びになっていましたが、このほど、少しだけ改善することになりました。
これまでは、紙にボールペンで名前を書いてセロテープで貼る。
これでは、如何にも安っぽい。
で今回は、以前修繕した廊下の端木れを利用して、こんな物を作ってみました。(こんなことばっかり!)

ヒノキの板をカンナで削り一定の大きさに切りそろえる、それに溝を彫った別の木を木工ボンドで張り合わせ、後はオイルスティンを塗りその上にニスで塗膜を作れば完成!
名札の取り扱いや便利さ等も考慮してはめ込み式にしてみました。
そして今までの手書きから、パソコンで作った名前に!
チョットは便利で、きれいになったかも?
客室を掃除してくれる人たちも、手間が省けてニッコリ!
でも、よ~く考えてみると、パソコンで名札を作る小生の仕事が又増えてしまいました・・・・・・・。(泣き)
喜びを待つ!
昨日、熊野川町のとある場所で、こんなもん見ました。
椎茸の栽培風景です
久しぶりです。
確かにホームセンターなどでは原木や菌が売られているのをよく目にしますが、レトロブームで街中で家庭菜園的に楽しむためのものかな~と思っていたぐらい。
ちょっとビックリしました!
この家も、昔ながらの栽培方法にこだわりっているのかも?
日当たりのよい場所で、ちょうど芽が出る時期なのか?椎茸の赤ちゃんが顔を出していました。
作っている人は、この瞬間はなんとも言えない喜びなんでしょうね~!
でも、椎茸には外的もくるでしょうし、防虫剤や殺菌剤を使うのかな?
虫が心配ですよね~!
まあ、人間が食べて美味しい物は、虫にも好かれて当たり前かもしれませんが・・・・。
何とか元気に育ってほしいものです。
椎茸の榾木(ホダギ)にはクヌギとかナラの木を使うようですが、これは何の木なんでしょうかね~。
木は1mほどに切りそろえられていますが、水分を含んでいるので、ここまで運ぶのも大変だったと思います。(高台です)
乾燥を防ぐ為に使うのか、近くに水道の取り出しも。
そう言えば父親が作っていた昔も、自然環境の中(特に湿気のある場所)で合掌つくり風に原木を立て、時々ひっくり返していたのを思い出します。
そうして作った椎茸はホントに美味しく、炭火で焼いて醤油をかけただけでも濃厚な旨みと香りが広がります。これが又イケるんです。
特に肉厚椎茸の美味しさは忘れられません。
遠い昔に思いを馳せながら、「自然の家」で椎茸作りを計画すれば、楽しみや喜び感動も与えられそうやし・・・・・特に子供たちには農・山林業の体験として良い勉強になるかも?
こんなことを考えながら、観察をしてきました。
「和の心」導入!
暖かいはずの熊野地方と言えどもこの時期の気温は低い、古道歩きのお客様も歩行中は汗も出るが、歩き終えると「寒む~い」から、「風呂・風呂・風呂」と言う方、中には「ハクッション!」と臨時の風引きまで まさに人さまざま。
やっぱり寒さは大敵ですね~!
そんな声を聞いて、今年からマットの上に布団、その上に毛布を敷きシーツをかける、そして、掛け布団は2枚と これまでにない重装備でお客様を迎えてはいる。(部屋には暖房設備もある)
でも、もう一つ決定的な、何かホッコリするもの無いんやろか~と考えていたところ、ホームセンターのチラシ が・・・・・・これを見て ムムッ これや!
「湯たんぽ」です。
早速プラスチック製の湯たんぽをゲット!
まず試しに自宅で使ってみる事にしました。
勿論、陶器やブリキの湯たんぽを使った経験はあるが、遠い昔の話 感触など覚えているはずもなし。
そんな昔を思い起こしながら使ってみると、これがなんともいえない心地よさ!
なんちゅうか?温かいと言うかホッコリした人肌に近い温み、これが実にエエンですわ!
そして、プラスチックと言うのに朝まで暖かい、これにはビックリ、なかなか侮れない奴です。
これまでは、布団の中で猫のように丸くなっていた小生、入れた湯たんぽは足元まで、じんわり温かく心地よく寝る事ができました。
古人の知恵、「和の心」ここにありって感じ!

お客様にも、そんな心地よい夜を過ごしていただきたく、早速「自然の家」へ。
今回はとりあえず10個を準備、これから徐々に増やしていきたいと思います。でも40個ぐらい揃えた時には夏が来てたりして・・・・。ww
というわけで、お客様の反応は?と言うと。
これがまたグー、
「体が乾燥しないし咽が乾かない」、「身体が温まる」。
「温かかった~!」
「血流が良くなって体がぽかぽかする。まだ温かいよ~!」 などなど。
湯たんぽで温まった血液が、冷えていた体を温めているようで大変好評です。
古道を歩かれるお客様は健康志向の人も多く健康にはことのほか敏感、でも、湯たんぽは、眠りはじめが温かく、朝起きる頃にはだんだんと温度が下がるので、睡眠のリズムに合っているようです。
何気に見たチラシ、そしてチョウー高級(?)な湯たんぽ、何が幸いするかわからない。
そして、何よりも嬉しいのは電気代がタダ!これがサイコ―!(笑)
湯たんぽ復活、この頼もしき奴にこの冬を託してみたい。
滝本の滝
幾重にも続く熊野の山並み、人々はこの厳しい自然に満ちた熊野に「神々が鎮座する」といいます。
癒しや蘇りを求めて、あこがれ続ける熊野。
そんな熊野の奥に、心を解き放つもう一つの空間があります。
「小口自然の家」から、右下に清流「小口川」を見ながら長が~い クネクネとした細い道を走り、鎌塚を通り秘境「清閑瀞」を過ぎれば「滝本」(走行約40分)があります。
昔は学校もあり、結構な数の人が住んでいたと言うが、今ではその面影もない。
人口は激減し、ますます高齢化の進むこの集落!
人は将来を危ぶみ、ある人は限界集落と言い、またある人は既に廃村などと言います。
これからどうなっていくのでしょうか?
反面、手付かずのまま残された自然、それはそれは見事なもので その雄大さは群を抜いています。
その名も示す「滝本」、すばらしい滝に抱かれたこの地では、滝を地域の誇りとし大切に保存してきました。
「北谷」「本谷」「ガマ谷」と分かれ、それぞれの支流に、宝龍滝、比丘尼滝、猿手滝、部屋滝、筆藪滝、溜の湾どの滝、屏風滝、けや木原の滝、亀壺滝、野々滝など10滝以上がこの里に所在します。
そんな滝本の宝である「滝」を紹介させていただきます。
北谷にあり水源は大雲取山、この山は最近まで富士山が肉眼で見える西限として知られていました。
【 筆薮の滝 】
地元では「お滝さん」と呼ばれているが名前の由来は不明。高さは約10メートルで滝壺はかなり広い。
熊野が誇る ミツバチ
3~4年前、京大助教授が日本ミツバチの研究に来訪し、「日本ミツバチは熊野にだけ生息する」と話されました。
かつて日本全国に分布していた日本ミツバチも、その勢力図が大きく塗り替えられ今や日本で主流をなすのは、「西洋ミツバチ」だと言う。
非常にしたたかで強いものを持っている西洋ミツバチ、しかし、そんな西洋ミツバチも山谷が複雑に入り組んだ熊野の地形や自然では生きることも難しく「降参」、結果的に日本ミツバチが熊野にだけ(?)生息することになったようです。
勿論、九州から本州の下北半島までの分布は確認されてはいますが、熊野以外は細々と生きているだけで山間部でかろうじて見られる程度。
そして、この熊野では相当以前から日本ミツバチの養蜂が盛んだったようで、江戸時代の本には「熊野名物」欄のトップに「蜂蜜」のことが書かれていると言う。
あっ そっか~! だからなんだ。
通勤途上や熊野川町の山肌でよく見かける「ごうば」(巣箱)。
この「ごうば」は、木を繰り抜いた物や板で作った簡単な箱で、蜂を飼育するためのもの。

飼育方法は、女王蜂とオス蜂・働き蜂で作った一団から、一匹の女王蜂や働き蜂などが生まれ、親子が分かれて別の世帯で暮らす蜂別れをする、分蜂したあとは自然に帰って、また新たな群れを引き連れて新しい住まい(ごうば)に入る。
その時期は4月から6月頃で、新居に入る時は見蜂と言う先行隊(偵察)が飛んできて必ず調べてから女王蜂を連れてくると言います。
そうして住みつき蜜を作る。
熊野川町では和田川周辺が最も養蜂に適していると言われていますが、これは他の地域に比べ雑木が多いからで、杉やヒノキの花ではなく雑木の花でないと蜜が集められないといわれています。
蜂は、そんな草木の花を求めて周囲2Kmに渡って探し、空洞の中に丸い筒状のものを自らが作ります。(西洋ミツバチの場合は中の網状のものに)
そうして作った蜜を2ヵ月ぐらい後に人間が集めに行く。
その際には、全部集めてしまうのではなく、蜂の冬越しのための食料として少し残すらしい。(人間って優しい!と思わせる?w。)
結局、苦労して作った蜜を人間が横取りして食べてしまう。
「ウシッシ」 (by人間)
「チクショ―」 (by蜂)
こうして熊野の自然の恵みが・・・・我々の口に!
蜂ミツには花粉やプロポリス、ローヤルゼリー等が溶け込み、西洋ミツバチよりもはるか栄養価が高いと言われています。
熊野人って贅沢ですね~。
ここだけの話ですが、他のものは2,000円~5,000円ぐらいと聞きますが、東京などでは日本ミツバチの蜂蜜は、一升30,000円ほどするとか?
くれぐれも、ご内密に!
初庚申

地元の方からは、「庚申(こうしん)さん」と呼ばれて親しまれていますが、この庚申さんの初庚申が本日10時から執り行われました。
この信仰は、元々は中国の道教に基づくもので、室町時代に天台宗系の仏教と絡み、更に、江戸時代には神道でも庚申の主神は猿田彦命であるされ、山の神、境の神、道の神等として信仰され広まってきたと言います。
「庚申(かのえさる)」の日には、人の身体に棲む三尸という虫が、眠っている間に爪の先から天に昇り、天帝にその人の悪口を告げるとされ、天帝は鬼籍のエンマ帳にその人の名を書いて寿命を定めると言われています。
そんな言い伝えから、庚申の晩には虫が天帝に報告することができないように寝ないで語り明かすという風習がありました。
小口でも昔はそのようにして、語り明かしたと言われていますが、今はお祈りをするだけですぐに終了、でも、信じるって言うよりも、心の依処として存在していればいいのかも?
まあ、何はともあれ祖先の信仰が語り継がれているのはいい事ですし、昔の憩いの場から、熊野古道を歩かれる皆さんの安息の場として、また、道しるべの標石として活用するにもいいと思いますよね~。
ところで今日は、あいにくの雨と大変な寒さで急遽公民館で執り行うことに!

公民館の祭壇には、「こんにゃく」「昆布」「七種の菓子」などが供えられ、法螺貝でお払いをしたあと、参加者たちは無病息災や家内安全をお祈りし、最後に全員で「オンコウシンレイ、コウシンレイ、マイタリ、マイタリ、ソワカ」と唱え、恒例の行事も無事終了いたしました。
暗闇の熊野古道
あらかじめ聞いていた携帯電話にかけてみるも「・・・・・・・・・・」、大雲取越えの電波状況は極めて悪い、やっぱり古道を歩いているのであろうか?
そうこうしていると5時20分、一人の女性が玄関に姿を見せ「越前峠を降りる途中相棒がひざを痛めて遅れている。先に連絡をと思って」・・・・・・。
心配していたことが的中、早速 懐中電器を2つ持ち熊野古道に入ることにしました。
辺りはもう既に真っ暗、入り口付近で犬にほえられながら久しぶりに真っ暗な古道の中へ。
夜の古道は実に不気味、初めての道で、電器も持たず身動きも出来ないお客様は不安どころの騒ぎではないだろう・・・・・・・・・。

歩きなれた道も何時もとは違う雰囲気、熊野を形容する際の「中世の人が怖れ憧れた闇の世界」ではなく、スギ、ヒノキが鬱蒼と繁る「現実の闇の世界」である。
シンと静まり返り実に淋しい気分!
途中、石段の前方を照らすと「キラッ」と光る目が・・・・・。
一瞬「ドキッ」とするが、近所で飼われている犬のようで、直ぐに逃げ去った。
何度かの「ガサッ」と言う音に微妙に反応しながらも、ひたすら歩く。
40分ぐらい歩いただろうか、円座石を越えて少し歩いた所で、「お~い」と大きな声が聞こえた。
光を見て思わず叫んだようです。
50mほど先の暗闇にお客様の姿を捉えた。
「よかった」「助かった」との第一声を発し、「一瞬に真っ暗になってしまい、身動きが取れなかった。」「途中までは、深い緑と石段や木にまで張り付いた苔に感動しながら、静寂と古道のすばらしい雰囲気を楽しみながら歩いていたが、違和感を感じていた膝が越前峠からの下りで一気に痛みに、杖は友人に借り2本で歩いたがあまりにも長い坂道、表示されている500メートルおきの間隔が、とてつもなく遠く、これまでにない不安と恐怖を感じた。」と一気に語り始めた。
安心して心が緩んだ証であろうか?
それとも、歩き終えて「山川千里をすぎて遂に宝前に額ずく、感涙禁じがたし...」(藤原定家)の心境であろうか?
熊野古道の怪物!
さて、何の碑なんでしょう!

今から600年ほど前、熊野の山奥に「一つたたら」と呼ばれる怪物が棲んでいました。
1つ目で足は1本、樽のような体で寺から盗んだ釣鐘をかぶっていましたが、その身は軽く飛ぶような勢いで山を走り、、両手に熊手を持ち熊野詣の旅人や熊野に住む人々を脅していました。
この怪物はものすごい力で、こぶし一撃で牛を倒し手で皮をはぎ、血の滴るなま肉を食らっていました。
熊野三山の宝物を次々と盗み、田畑を荒らし家畜を食い、村民を恐怖のどん底に陥らせていました。
那智色川から大雲取を越え、小口神社へも宝物を狙いにきたそうです。
熊野三山では、この化け物退治に褒美を出すとの「お触れ」を出し、何人かの力自慢の男たちが褒美ほしさに「一つたたら」に立ち向かいましたが、誰一人として帰ってくる者はいませんでした。
そんなある日、弓の名人が樫原にいると聞きつけ、使いを出して怪物退治を頼みました。
その人は、狩場行部左衛門(かりばぎょうぶざえもん)と言い、七匹の犬を連れ72時間待った末にやっと「一つたたら」と遭遇しました。
七匹の犬は、あまりの恐ろしさに尻尾を丸めて伏せてしまいましたが、男は勇敢にも怪物に立ち向かっていきました。
しかし、行部左衛門も72本の矢をすべて打ちつくしてしまい、「ああ・・・もう矢がなくなってしまった!」とがっくりしていると、一つたたらは、安心したのか被っていた釣鐘をはずしてニタッと笑ったといいます。
耳まで裂けた大きな口を開け行部左衛門に食らいつこうとしたその瞬間、残しておいた樫の大矢で怪物の胸を打ち抜き、見事怪物退治を果たしました。
その後、人々は安心して暮らすことが出来るようになり、褒美として新宮・本宮からは百貫文づつ、那智からは寺山三千町歩をもらいましたが、もらった土地は色川18ヶ村に寄付をしたそうです。
その山林を示す碑です。
大雲取(熊野古道)を歩かれる皆さん、「一つたたら」は退治されました。
~どうか安心して歩いてください~!
どんど焼き
「どんど焼き」は、一説には平安時代の宮中で青竹を立て、扇子や短冊などを添えて陰陽師が謡い はやしながらこれを焼き、その年の吉凶などを占ったのが起源とされています。
火は昔から敬怖した存在で神力があると信じられ、今でもどんど焼きの火で餅などを焼いて食べると無病息災であるとか風邪をひかないと伝えられ、また、書きぞめの紙を投げ入れ、火のあおりでを空に高く上がれば上がるほど字が上手くなるとも言われています。
でも、今はそんなことをする子もいないし、何よりも書道をする子供たちもいなくなっている、もうすでに昔話なのでしょうか?
ところで昨日は、天気もよく「どんど焼き」には最高の日、まあ、最高と言っても1月、寒さは相当なもの!
この日は朝早くから近所のおばちゃんたちも豚汁や秋刀魚寿司の用意で大忙し、いつもの事ながらおばちゃん達のパワーには頭が下がる。

準備の整った午後6時、熊野修験者のT氏がお隣の高倉神社でほら貝を吹いて無病息災の祈りをささげたあと、みち芝グループの代表Oさんが竹と杉の木で作った塚に御神火を点火すると、その火は一気に燃え上がりました。


熱くて、中々近づくことは出来ません!
火が若干下火になったころを見計らい、長い竹に挟んだ餅を焼いて食べますが、これが又楽しみ。
「熱つ~て、たまらんわ~」と言いながらも皆一生懸命に焼いていました、中には、焼きすぎて真っ黒になった餅も、炎が大きくうまく焼くにも「コツ」がいるようです。
小生も焼いてみましたが、焼き具合はいいものの付ける醤油もないし・・・・う~ん まあまあかな?と言う感じ。

こうして「どんど焼き」も無事終了しましたが、初めて小口の「どんど焼き」を経験し、青竹の切り出しや杉葉集めから塚を作り、炎の中でその青竹が破裂する「パーン」と言う音、飛び散る火の粉の舞いはとても感動的でもありました。
~ いつまでも この伝統を守っていきたいものです ~
新四郎溝
シシガキに土砂が堆積?と思ったが、どうも昔の水路のようです。

山を20mほど降りてみると古い看板があり、
杉林の中の古い溝路は、今を去る8百年もの昔、赤木の里に移り住んだ平家の落ち武者の子「田中新四郎」が、赤木地区の人々が毎年水不足で困っている姿を見て一念発起、田長谷から赤木に送水することを決意し私財を投げうち、岩を切り開き石垣を積み700mあまりの溝路を完成させ、待望の水を赤木の里へ導くことが出来た。
水路は数百年の間、毎年春先に里人が改修を重ねて保存していましたが、昭和8年、新しい水路が出来たのを機に、それ以降は使用されなくなりました。
赤木の人は新四郎の行ないに深く感銘し、この古溝を「新四郎溝」と呼ぶようになった。
とありました。
テレビなどではインダス文明の給排水について、よく放映されていますがはるか遠い時代にも、既に都市には給排水の設備があったり、日本でも環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落)に、中国などから稲作技術と共に伝えられたものなのか?農業用水路として使われていたと推定される跡が見つかったり・・・・・。
とにかく水路の歴史ってスゴイですね~。
今も昔も、水は人間の日常生活に絶対必要な事は言うまでもありませんが、経済活動にも不可欠なものだったんですね。
この「新四郎溝」も、時代の流れと流域住民の生活の変遷で役目を終えてしまいましたが、別段の動力を用いることもなく、土地の高低差だけで水を送るのは、起伏に富んだ熊野ならではのものかも?



