『多逢聖因 縁尋機妙』(たほうしょういん えんじんきみょう)

「いい人に交わってると、知らずしらずに、いい結果に恵まれる」ということだそうです。
いい人はいい物に通じます。「いい物に交わっていると、
知らずしらずにいい結果に恵まれる」ともいえます。
そして 聖因は勝因にもつながる尊い縁です。

ご縁に感謝。
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卒業証書のない卒業式

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今年もまた卒業式の季節がやってきました。
桜の便りと共に、この時期が来ると、必ず思い出す
“1通の手紙”があります。
きょうはある学生から私宛に届いた、
その卒業にまつわる手紙を紹介します。


学生の名はオ〇〇さんといいます。
私がまだ大学で講義をしていた頃のことですが、
あれから月日は流れたものの、
平成の不況が今なお続いているせいか、
この手紙を受け取ったのはついきのうのことのように思われます。


そう言えば、かつて私がCBCラジオの早朝番組を
担当していた時にも、
受け取ったばかりのこの手紙をマイクに向かって読み上げて、
少し胸をつまらせたことを思い出します。


オ〇〇さんの思いは、心情は、今皆様に届くでしょうか。
(手紙は原文のままです)



       ☆ ☆

〇村先生

きょうは記念すべき日なんですよね。私達大学の卒業式です。

ほんとうなら今頃、卒業式の会場で
“仰げば尊し”を歌っているはずなのですが、
私は今ひとり近くの白川公園で
“下町の太陽”を口ずさみながら、
昼食におにぎりを食べています。


毎日自分で作って、会社の昼休みに
この公園でひとり食べています。
外食はいっさいしたことがありません。

どうしても喉が乾いた時だけは、
自販機の缶コーヒーを飲む程度です。
きょうも仕事が5時に終わったら、
また6時から12時まで別のところでアルバイトです。

もうこんな生活が半年位続いています。


先生。きょうもいい天気ですよ。
3月とは言え、太陽がとても眩しくて・・・。
やっぱりこの歌、歌っています。


そう言えば〇村先生は講義が始まる前の
“おはよう”の挨拶がわりに、
そしてまた私達のクラスが何となく元気がない時に、
「みんなどうしたの?こんなに天気がいいというのに・・・」と言いながら、
よくこの歌、歌っていましたよね。


先生が「みんな知っているでしょ。“下町の太陽”」と聞くと
「知らないよ、そんな古い歌」と笑われながらも、
先生が何度も歌うものだから、
そのうちみんなも覚えてしまいましたね。


今から約2年前。
〇村先生が初めて私達の大学へ着任された日の4月。
私もこの大学の新入生でした。
この大学に来て、〇村先生にも会えたし、
学校の雰囲気もよく、私はこの大学が気に入り、
嬉しくて仕方がないと思っていた入学式の1週間後でした。


友達もでき大はしゃぎで家に帰ったその晩、
私の父の経営している会社が倒産したことを、
父から知らされたのです。
陶器を輸出している小さな会社でした。

でも不債額が多かったため、
家や土地も全部取り上げられることになりました。

毎日家に帰ると、紙が貼られた家具や電化製品が
ひとつづつなくなっていくのです。
ついに冷蔵庫もテーブルもなにもかもなくなってしまいました。


母が勤めはじめました。
でも私はそのまま大学に通っていたのです。

弟もいました。高校生です。
何としてでも高校だけは出さなくてはと、
私は4時半に授業が終わるとすぐアルバイトに出かけました。

夜中の12時まで働くので、
最初は夕食が込になっていたはずなのに、
実際働いてみると夕食が出ないどころか、
食べる時間さえないほどの忙しい仕事場でした。


夜中の1時頃帰宅すると、
何もなくなってしまった台所の床に
サランラップに包んだ小さなおにぎりが2個、
いつも置いてありました。

これが私の夕食です。毎晩、母が作って置いてくれるんです。


その後、父は蒸発し、見つかった時自殺未遂をしました。
私達家族は家を追い出され、
小さなバラックのようなところに移り住むことになりました。

この時点で大学をやめることを迫られていました。
でも私は絶対にやめませんでした。

朝、学校に行く前の早朝2時間、学校が終わってからの6時間。
土曜、日曜も返上し、私は夢中で働きながら、
こうやって1年半を過ごしたのです。



でも、とうとう大学をやめなければならない時が来ました。
行政体の手が私のところまで伸びてきたのです。
負債額も多く、また債権者が何人もいる場合は、
その債務者の家族が大学へ行くことは
許されないということでした。


あと半年で卒業できたと言うのに・・・。
ほんとうに悔しかったです。


私は今、朝9時から5時まで、夕方6時から12時まで、
2ヶ所で働いています。
昔、先生は、朝9時から5時まで、
そして夕方5時半から朝8時半までの勤務を
仮眠時間4時間という中で、
2年間続けたことがあるって話してくれましたよね。

それを思えばまだまだ楽なほうです。
それに先生は、妹さんが死んでしまったそうだけど、
私には弟もいるし・・・。


先生、教えてくれましたよね。私達に。

「私は弱い人間です。あなたたちだけではありません。
だから一緒に、こんな弱い自分から今日こそ抜け出しましょう」
って。

そして「みんな太陽のようになろうよ」 とも言いました。
「知らず知らずのうちに相手の心を開かせるような、
そんな太陽のような人になろうよね」って。
先生。色んなことを教えてくれて、ありがとう。


私はきょう、白川公園でたったひとりの卒業式をしています。
卒業証書のない卒業式です。そして、私が卒業式に歌う歌は、
“仰げば尊し”ではなく“下町の太陽”です。
不思議なことに、このほうがずっと元気が出るんです。


先生。聞こえますか。私の歌・・・。私の声・・・・。
ありがとう。山村先生。
また明日から新しい気持ちで頑張ります。

オ〇〇より


       ☆ ☆


不況とは言え、大学の卒業式は年々派手になっています。
そんな中で、こういう卒業式をひとりで
そっとあげた人がいたことを私は忘れません。

オ〇〇さんのひたむきに生きた日々が、一途に貫いた努力が、
必ず実る日の来ることを祈り続けています。


平成23年 桜の蕾、ふくらんで・・・・・・


雑誌「到知」メールマガジンより

習いごと

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今年も母の介護をしながら新しい年を迎えた。
部屋の中に正月らしい風景はどこにも見当たらないけれど、
時折ラジオから聞こえてくる琴の音が、
迎春の装いを心地よくかもし出している。


琴の音・・・・・・。美しいと思う。
その美しい音色はしかし、
遠い昔に抱いた少しせつない感情を、
かいま思い起こさせもする。



あれは確か、小学校の2年生になった頃だったと思う。
妹が亡くなり、すっかり会話を失った家から、
ひとり学校へ通うその帰り道、
私は必ずある家の前で立ち止まった。


その家の2階から、いつも同じ時間に
美しい音色が聞こえてくるのだ。
生まれて初めて耳にする優美な音色。

私は学校が終わると、
まだ舗装の行き届いていない砂利道を走って帰り、
1時間でも2時間でもその音色が消えるまで、
その家の前に立って自分だけの幽玄の世界に浸っていた。


その家の1階は精肉店になっていた。
ある日、その精肉店のおじさんが私に声をかけた。


「またきょうも、そこに突っ立っているのは、
 洋子ちゃんかい?」


小さな田舎の町である。
そこいらの子供の名前は誰でも知っていた。


「ねえ、おじさん。2階から聞こえてくる
あのきれいな音、何の音?」


「ああ、あれか、あれは琴の音だよ。見たことないんか?」


「うん。コトの音?どんな形をしているの?」


「そうか。知らんのか。
 よほど気に入ったとみえるなあ……。
 じゃあ、見せてあげよう。
 あれは、うちの奥さんが弾いているんや。2階へ来なさい」


私は飛びあがって喜んだ。
そしておじさんの後をついて、2階へ上がっていった。
綺麗に片付いた畳の部屋の前に立つと、
その琴とやらを、きちんと座った女の人が
優雅に奏でているのが見えた。


「うちの奥さん、琴の先生でな。
 教えているんや。あんたも習うてみるか?」


気のいいおじさんは
“琴の月謝は安くしておくし、琴も貸してあげるから”
と約束してくれた。


母に話すと、

「あんたがそんなに気に入ったんやったら、習いなさい。
 月謝は母さんがなんとかするから」

と、久しぶりに笑顔を見せた。



1年。そして1年半が過ぎた。


「洋子ちゃん、1回も休まず熱心やなあ。えらいえらい。
 だいぶうまくなったし……。
 ほら、口を開けてごらん」


そう言いながら、帰り際になると、
髪のめっぽう薄い精肉店のおじさんは、
精肉用の機械から切り出されたハムの切れ端を、
必ずと言っていいほど、私の口にほうり込んでくれた。

昭和30年代はじめの、まだまだ物資の乏しい頃のことである。


借りた楽譜に、借りた琴。そして何より安い月謝が、
ぜいたくとも言えるこの時代の習いごとを
辛うじて私に許してくれていた。

私は嬉しくてたまらなかった。
少しずつ上達し、簡単な曲を、何曲も弾けるようになった。
暗い家庭の中にあって、琴と向き合う時間が、
唯一、私にとって励みと癒しになっていた。



そんな或る日・・・・・・。
琴の先生から、4ヵ月後に発表会を行う旨が知らされた。
全員が着物を着用し、私のような小学生の子供にも同じように
着物を用意してほしいとの説明があった。


着物を着れば当然、帯もいる。草履も足袋もいる。
子供心に、それだけの衣装を揃えることが、
家族にとって、どれほどの負担になるのか、
私は十分過ぎるほど知っていた。

発表会と聞いて、周りの生徒はみな喜んでいたが、
私は自分だけにわかに青ざめていくのがわかった。


先生から、衣装について詳しく書かれた
1枚の紙を渡されると、私は2階から降りた。


「洋子ちゃん、よかったなあ。いよいよ発表会やで」


いつものように精肉店のおじさんが、ニコニコしながら、
私に声をかけた。


私はその場を走り去り、また少し歩いて近くを流れる
桂川の橋のたもとにたどり着いた。
とても母には言えない・・・・・・。


橋の欄干につかまって、ゆるやかに流れる水面を見つめながら、
やがて私は、握りしめていた紙をそっと手放した。
紙はひらひらと宙を舞い、静かに水面に落ちた。
その日を限りに、琴の爪が私の指に納まることは2度となかった。



あれから50余年・・・・・・。
私は、琴の音を聞くたびに、
あの日あの橋の上で抱いた思いを、
懐かしい昔話として母に話そうかと思うことがある。


「お母さん。私、琴のおけいこ、
 もう飽きちゃったから、やめる……。ごめんね」


「まあ、この子ったら……。
 やっぱり長続きはしないんだから……」


あの日の会話は、ここで終わっていた。


母は、ほんとうのことを知りたいだろうか。
いや、やっぱり、このままそっと
私の胸にしまっておいたほうが、いいかもしれない……。


「ひとりで墓場まで、持っていこう……」


琴の調べを聞きながら、そんなことを思い起こさせた
年の始めの静穏な一日であった。



平成23年 新春 余寒厳しくも、春はすぐそこに……



雑誌 「到知」 メールマガジンより

余命わずかの花嫁

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がん宣告の『余命わずかの花嫁』 
病院内で挙式2日後に死亡 米  2011.1.19 13:38

がんを宣告され、余命わずかと診断された
ジェシカ・ワースさん(25)が13日に
米インディアナ州エバンスビルのセント・マリー病院内で
結婚式を挙げ、その2日後の15日に死亡した。

 夫のダニエル・ローレンスさん(26)は
同州のレイツ高校時代からの付き合いで、徐々に交際を深めていった。
誰もがうらやむような幸せそうなカップル-。
ところが“悲劇”は突然、訪れた。

 昨年9月、ジェシカさんはがんを宣告され、
余命が幾ばくもないことを知らされた。
がんにむしばまれた体は見る見るやせ細り、
自力での歩行が困難なほど病状は悪化していった。
そこで、ローレンスさんは「彼女の最後の望みをかなえてあげたい」と結婚を決意。
病院内のチャペルで行われた結婚式には友人ら150人が列席した。

 式ではジェシカさんのおじのジェリー・ワースさんが牧師を務め、
「2人は結ばれて、より強くなるでしょう」と祝福。しかし、
花嫁衣装をまとったわずか2日後の15日午後7時35分、
ジェシカさんはローレンスさんに看取られながら静かに息を引き取った。

 ジェリーさんは「私たち家族は深い悲しみに包まれました。
でも、結婚式の喜びは、それをはるかに上回るものでした」と話す。
ジェシカさんとローレンスさんの間には、忘れ形見となる1歳6カ月の息子がいる。
ジェリーさんは「ジェシカは、私たち家族の仲は何があろうとも決して
切り離せないものだということを示してくれた」と話している。


MSN  産経ニュースクリック

きょうはすてきなクリスマス

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その先生が五年生の担任になった時、
一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。

ある時、少年の一年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。 勉強もよくでき、将来が楽しみ」
とある。間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。
二年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と書かれていた。

三年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」

後半の記録には
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
とあり、四年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう」

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。
先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?
 分からないところは教えてあげるから」

少年は初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。

クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。
亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、
先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

「ああ、お母さんの匂い! きょうはすてきなクリスマスだ」

六年生では先生は少年の担任ではなくなった。
卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」

それから六年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担当してもらって、
 とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」

十年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた体験があるから
患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。

「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。
 あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、
 神様のように感じます。
 大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
 五年生の時に担任してくださった先生です」

そして一年。届いたカードは結婚式の招待状だった。

「母の席に座ってください」

と一行、書き添えられていた。

・。。・゜゜・。。・゜・。。・゜゜・。。・゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・。・゜゜・。。・゜゜・。。・゜゜・

本誌連載にご登場の鈴木秀子先生に教わった話である。

たった一年間の担任の先生との縁。
その縁に少年は無限の光を見出し、それを拠り所として、それからの人生を生きた。
ここにこの少年の素晴らしさがある。

人は誰でも無数の縁の中に生きている。
無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。
大事なのは、与えられた縁をどう生かすかである。


雑誌「到知」 メールマガジンより

昭和最後のクリスマスイブ

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「わかりました。やめさせていただきます」

一礼して、そのまま自分の引き出しから
わずかな荷物を紙袋に詰めて、私は部屋を出ました。
一瞬めまいがしたように思いました。

「いったい何が起きたのだろうか」

私は、失業したようでした。


(中略)


家に帰ろうと思い、愛用の赤い自転車のハンドルに
手をかけましたが、さすがにその日は
自転車を漕ぐ元気はありませんでした。

そのまま自転車を引いて、トボトボといつも通る
繁華街の女子大小路を抜けていきました。

女子大小路は妙ににぎわっていました。

それもそのはず、その日は12月24日、
クリスマスイブだったのです。
仕事に追われ、クリスマスが来ていることも忘れていました。

「今日はイブか…。それにしても
とんでもないプレゼントをもらってしまった…」

そんなことを思いながら、アパートにたどりつき、扉を開けたとき、
突然現実の重みが私にのしかかってきました。

これからどうやって暮らしていけばいいのか。

そう思うと全身が震え、私は思わず
床にうずくまってしまいました。

『赤い自転車に乗って』より抜粋



床にうずくまったまま、私はしばらく途方に暮れていましたが、
急にからだの力が抜けたのか、
それとも今までの疲れが一気に出たのか、
そのままソファにもたれて、うたた寝をしてしまったようでした。


どれほどの時間が経ったのでしょう。


電話のベルがしきりに鳴っているのに気がつきました。

今頃、誰だろう…。


時計の針は夜の10時半をさしています。
おもむろに受話器をとると

「もしもし、Yさん?」と明るい声が聞こえてきました。
「はあ…」と気のない返事をすると
「私、管理人のMです」と返ってきました。

「さっき帰って来られた時、後ろ姿を見ましたが、
 何だか元気がなかったみたいで…。
 大丈夫ですか?」

「あっ。ええ…。ご心配かけてすみません」

「私、きょうは当直なので、さきほど
 遅い夕食をとりに近くの寿司屋へ行きました。

 Yさんいつも帰宅が遅くて食事の用意
 たいへんだろうと思って、帰りに巻き寿司を買ってきましたよ。
 ビニール袋に入れて今、玄関のドアに引っ掛けておきましたので、
 よかったらそれを食べて下さい」

何ということでしょう。
まだこのアパートに入居して2ヶ月も経っていないというのに、
そっと人の動きを見守りながら、黙って気遣って下さる管理人さん。

「あ、ありがとうございます。食事まだでしたので助かります。
 ほんとにすみません。ありがとうございます」

恐縮して何度も礼を言うと

「何か困ったことがあったら相談して下さい。
 Yさんは私と同じ岐阜県の人だから
 いつでも協力しますよ。では…」
 
と言って、静かに電話が切れました。
どこか素朴な感じのする年輩の管理人さんです。

玄関に行ってドアを開けると、
取っ手のところに不透明のビニール袋が掛かっていました。

おや…。巻き寿司にしては少し重いようです。

私はビニール袋をそっと抱えて
小さなテーブルの上に置きました。

折に入った巻き寿司を取り出しましたが、
まだほかにも何か入っているようです。

再びビニール袋に手を伸ばすと
中からペットボトルの暖かいお茶とリンゴがひとつ。

小箱に入ったチョコレートと
小さなパックに入ったイチゴショートケーキがひとつ。
数センチの赤と緑のローソクが2本。
そして最後に冷たい缶ビールが2缶出てきました。

「こんなにたくさん…」

ひとり呟きながら、テーブルの真ん中に巻き寿司を置き、
その周りに袋から出てきたものをすべて並べると、
小さなテーブルはいっぱいになりました。

「Mさん、ありがとう」

そう言って私は最初に缶ビールの蓋を開けました。

乾いた喉に冷たいビールは美味しかったけれど、
さすがに食欲はありませんでした。
缶ビールを片手に、何気なく赤いリンゴに眼をやると、
その表面に何やら油性マジックで

字が書いてあるのが見えました。

「何だろう…」

私はリンゴを手にとり、ゆっくりその文字をたどっていきました。

“メリークリスマス Yさんに祝福を”

「ええ!これはMさんからの
 クリスマスプレゼントだったのだ。それでケーキが…」

初めて気づき、私は慌てて2本のローソクをとって、
ガスコンロで火をつけ、
イチゴショートケーキの上に差し込みました。

そして、部屋の明かりを消し、
小さな電気スタンドに切り替えて、
ローソクの明かりが静かに揺らぐのを見つめました。

思いがけないクリスマスイブの贈り物…。

私はきょう、“失業”という
やはり思いがけないクリスマスプレゼントをもらいましたが、
しかし、そのすぐあとには、こんなにも
暖かい思いやりに満ちたプレゼントを手にしました。

それは、あたかも地獄の底に垂らされた
天国からの1本の糸を見るような思いでした。
きよし、この夜…。

ひとり口ずさみながら、背筋が寒くなるような
失業の痛みを感じつつ、テーブルの上の小さなケーキを、
赤いリンゴを、そしてゆらゆら揺れるローソクの明かりを
見つめていると、ふいに涙がこぼれました。

お腹は空いていないのに、なぜだか巻き寿司の折に手が伸びました。

メインディッシュの巻き寿司を口いっぱいに頬張ると
涙はいっそう溢れ、嬉しさと悲しさが交錯して、
どちらともつかぬ涙は、いつまで経っても
とまることはありませんでした。

昭和最後のクリスマスイブのことでした。

年が明けて…。

ささやかな希望と絶望は、
人の世の塵にまみれながら、さざ波のように行ったり来たり…。

それでも、生きようとするその命の確かさがある限り、
光は差すところには差してくれるようです。

赤い自転車が、その後の私の人生を大きく変えました。

そういえば、その自転車を譲ってくれたのも管理人さんでした。

人の情けが痛いほど身にしみる平成の幕明けです。
そして春に向け、小さな前カゴに
愛と勇気と気概をいっぱい乗せて、
赤い自転車はいよいよ本格的に走り出します…。

         平成22年12月 そして新しい希望の年へ



雑誌 「到知」より クリック
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